新田開発の奨励

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 江戸幕府開設後の慶長年間に、関東その他の地方で、伊奈忠次らの有力代官は新田開発を奨励しその成果を吸収することに努力した。【諸役免除 名田付与】慶長七年、伊奈忠次は遠州磐田郡下の「あくろ太郎五郎殿新田百姓中」宛に、この新田開発に集まる農民に対しては「諸役」を免除し、切り開いた「田地」は開発者の「末代」の「名田」にする、という趣旨の手形を与えている(「松下文書」『静岡県史料』五)。【反取軽減】忠次が慶長九年遠州周智郡上山梨郷の名主・百姓中宛に与えた年貢割付状には、「当発」の田畠として「下田三反三畝廿九歩 当発 壱斗取」「下畠九反九畝拾五歩 当発 五升取」とあるが、新開発の租率(反取)が低くなっていること(下田四斗五升取、下畠四斗取)が注目される(「村松文書」『静岡県史料』四)。前に述べた慶長九年宇志村検地帳には「当発」「当おこし」として田畠十五筆三町九反三畝余歩が登録されている。【飯田新田の開発】浜松地方の例として、忠次と共に幕府の有力代官であった彦坂九兵衛光正が寅年(慶長七年)に飯田新田町百姓中宛に出したつぎの新田開発促進の手形がある。
 「川輪之庄飯田新田高之外、いつれ成共才覚次第切起可㆑申侯、三年可㆑為㆓作取㆒候、但諸役等令㆓免許㆒者也」(「伊藤文書」『浜松市史史料編三』)