浜松藩の新田開発者

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 【代官】この当時の浜松藩領は戦国武士の系譜を持つ六人の在地土豪が「代官」としてこれを「賄」って(支配して)いたらしく、彼らは藩権力の支援のもとに新田開発にも従事していたと考えられる。その中の一人である有玉村の高林家三代目忠吉のころ(承応元年)には「御領分新田隠田、万御仕置改まり、さはがし」くなり、忠吉は代官を辞職し同役の笠井村山下佐二兵衛は自害するという有様であった。前にふれた安間新田の開発者安間家も同家の系図によると戦国武士の家筋であった。【上層農民】しかし新田開発者には東河原新田の開発に活躍した北嶋村の名主甚兵衛のような上層の有力農民も多かったことを見落してはならないし、また東河原新田の所属をめぐって明暦(めいれき)元年には浜松領北嶋村と天領安間新田村の間に訴訟事件が起こったことも開発地の支配区分に関する問題として注意する必要がある(『大橋家文書』・『安間家文書』)。【松島新田の開発】このことに関連して松嶋新田の場合を『松島家記録』によってつぎに述べてみたい。この新田は正保年間から寛文年間にかけて開発されたものである。【五右衛門】正保年間に、四本松村の有力農民門五左衛門の次男であった五右衛門は、開墾予定地が幕府領と浜松藩領の境界にあたるため、慎重に幕領との境を確かめたうえで、浜松藩に開墾を願い出て許可された。【境界訴訟】開墾に着手すると、掛塚(かけつか)村の新田開発者長十郎が境界について抗議をしてきたので訴訟になり、五右衛門の勝訴となった。【御給村新田】当初隣村にちなんで御給(ごきゅう)村新田と称し、五右衛門は開墾の功によって藩主から地子(じし)免除と独礼の家格を与えられた。その後の開発の進展状況は下表のとおりであった。
 
検地年次石高(升以下切捨)備考
慶安215石3斗五右衛門新田と称す,名請人五右衛門
承応元35石6斗
明暦256石1斗松嶋新田と改称・百姓持高五右衛門約五分ノ四
百姓12人約五分ノ一
寛文7119石7斗(約19町歩)松嶋村と改称(長上郡河和荘松嶋村)
〃9135石7斗