新田開発者間の競望

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 この間、寛文八年に五右衛門は権兵衛から訴えられた。その訴状の要旨はつぎのようであった。―松嶋新田の開発者は六名で、新田収穫を三百石と見込み、六人がつぎのとおり六つの「屋敷割」を定めた、すなわち一番権七郎(若林村)、二番五右衛門(四本松村)、三番権兵衛(若領家村)、四番権右衛門(若林村)、五番五郎太夫(浜松宿肴町)、六番門五左衛門(四本松村)。【抱百姓】そしてこれらの屋敷にそれぞれの「抱百姓(かかえびゃくしょう)」を住ませて開墾に従事させ、五右衛門を全体の「賄人」(支配人)として依頼した。しかるに、五右衛門はわがまま勝手にふるまい、百姓をとりつぶし、権七郎・権兵衛の屋敷を押領した。これは約束に反することであるから、吟味の上五右衛門が押領した土地を返すよう仰せ付けられたい。権七郎・権右衛門は五右衛門の縁類、五郎太夫は五右衛門の郷宿であるため、いずれも訴訟に同意しなかった―これに対し、五右衛門は虚構であると反論し、結果は五右衛門の勝訴となった。【開発の方式】この一件には、新田開発者間の競望・利権争いや開墾の方式が示唆されている。五右衛門は容易な地区から開墾を始め、労費を要する古川筋に対しては、寛文八年(一六六八)にいたって五軒の百姓を移住させてその開発に着手した。しかるに、この年近隣の御給村・西嶋村の者が貢米二百俵献納を条件として浜松藩主に古川筋の開墾を願い出て許可されたのである。五右衛門は古川筋の開発権はさきに自分に与えられているとし、その取消しを藩主に訴えたがとりあげられなかった。【崇神 百姓配置 並百姓 抱百姓】さて、五右衛門が新田開発・新田村づくりに際し、椎河脇(しいがわき)社(一ツ宮)・大神宮(神明宮)・熊野権現・水神を崇敬したこと、二ツ宮と三ツ宮のあいだに百姓家二戸(二軒屋)、西南の地に百姓三戸(三軒屋)、五右衛門家の前後に百姓七戸(本村)を配置したこと、開墾地には「並百姓」(屋敷や若干の土地を与えて開墾にあたらせる)と「抱百姓」(家作・種苗などを支給し、五右衛門の既墾地を耕作させる)を招集したことは興味が深い。松嶋新田の開発が一応完成した元禄十六年(一七〇三)の松嶋村の概況と五右衛門家の地位は次表のとおりである(『松崘村人別并牛馬犬等御改帳』)。