【百姓】右の表からも知られるように、村の住民は百姓と百姓以外の者とに大別される。この場合、僧侶・神官・山伏・美子(みこ)(神子)・医師・職人・商人などが村落共同体の中でどのような地位をしめ、役割をはたしていたかという点については明らかにしがたい。また、宝永三年(一七〇六)改めによる浜松領の『家数覚書帳』(『岡部家文書』)は下表のとおりである。村の住民の中心は百姓である。近世においては、一般に百姓の身分階層は複雑多様であったが、本百姓とその他の百姓(さまざまの呼称がある)とに二大別される。
【本百姓】本百姓その他の本質や相互区別の基準については年代差・地域差にもとづく諸学説がある。本百姓(町場の本町人に対比されるもの)は、おおまかにいって領主から評価される面と村落内で評価される面とをあわせ持っている。【水呑】つまり、領主に対しては貢租負担の義務を持つ百姓であって、近世初期には「夫役(ぶやく)」(労働地代)を負担した屋敷持農民が「本役」「役家」百姓とされたが(初期本百姓という)、十七世紀後半には「年貢」(生産物地代)を負担した高持百姓が広範に成立し(これを近世本百姓という)、無高百姓を「水呑(みずのみ)」と呼ぶようになった(前掲国領組村々一覧表寛文期と享保期とを比較参照)。この近世本百姓の典型は「小農」といわれる単婚小家族の自営農民であり、彼らが幕藩封建体制の基盤とされたのである。つぎに、本百姓は村落内で「一人前」「一軒前」の百姓として何らかの権利(用水権・山野入会権・村政への参加権など)や格式(家柄・百姓株)を村人の総意によって承認されていた百姓であった。高持百姓としての本百姓にはとくに後期になると変動がみられたが(後述)、村内で成立した本百姓の格式は、その維持固定がはかられ、容易には変動しなかったのである。