【浜松領の確立期 高力氏時代】つぎの城主高力忠房(ただふさ)は元和五年に武蔵岩槻から入封したが、当初の所領三万一千五百石余のうちには遠江の四郡(長上・敷智・豊田・麁玉)内の一万一千石余が含まれ、そののち寛永(かんえい)十一年(一六三四)に遠江で五千石が加増となった(『新訂寛政重修諸家譜第八』)。これによると高力氏の所領は旧領二万石が武蔵国に飛地としてあり、遠江では初め一万一千石余、のちに一万六千石余であった。前述のとおり、寛永初年には駿遠五十万石が駿河大納言徳川忠長(ただなが)に与えられていたので、この数年間の高力氏の地位について若干の疑問はあるが、高力氏は浜松在城中に稜極的に新田開発や検地にとりくみ、浜松藩領の基礎をきずいた城主の一人であったと考えられる。
浜松領境石(浜松市薬新町)