浜松領の創立期

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 【水野氏時代】史料の上から遠江地方の浜松藩領が具体的に知られるのは城主水野重仲(一六〇九―一六一九)の時が始めであり、「浜松領御知行割」(『浜松市史史料編四』)がそれである。これによると慶長十五年(一六一〇)三月に六十八か村(郡名不詳)一万五千三百石余、元和(げんな)三年(一六一七)十月に加増分として五十二か村(敷智郡八・長上郡四十二・豊田郡二)一万石余が重仲に与えられた。重仲の所領は遠江におけるこの二万五千石余の外にいわゆる飛地として前任地の常陸国内で一万石、さらに駿河庵原郡鳥坂村(清水市)四百四十八石余があり、合計三万五千石余であった。重仲は前にふれたように駿遠五十万石の国主であった徳川頼宣(よりのぶ)の御付家老(傅(ふ))であった。
【浜松領の確立期 高力氏時代】つぎの城主高力忠房(ただふさ)は元和五年に武蔵岩槻から入封したが、当初の所領三万一千五百石余のうちには遠江の四郡(長上・敷智・豊田・麁玉)内の一万一千石余が含まれ、そののち寛永(かんえい)十一年(一六三四)に遠江で五千石が加増となった(『新訂寛政重修諸家譜第八』)。これによると高力氏の所領は旧領二万石が武蔵国に飛地としてあり、遠江では初め一万一千石余、のちに一万六千石余であった。前述のとおり、寛永初年には駿遠五十万石が駿河大納言徳川忠長(ただなが)に与えられていたので、この数年間の高力氏の地位について若干の疑問はあるが、高力氏は浜松在城中に稜極的に新田開発や検地にとりくみ、浜松藩領の基礎をきずいた城主の一人であったと考えられる。

浜松領境石(浜松市薬新町)