【市野村】ところで、市野家の真防は元禄十年(一六九七)代官職を辞し、小普請に就任し、正徳四年(一七一四)致仕(ちし)し、市野村に住んだ。『元禄高帳』には市野村九百五十二石余のうち、除地十七石六斗九升八合が市野惣太夫屋敷と記されている。真防の子真則は元禄六年小十人となり廩米(りんまい)百俵を給せられ、同家はその後代々主として小普請に就任して十七石余の采地(さいち)と廩米百俵をうけついでいた。【土豪代官】市野代官の治績については不明であるが、市野氏が前に述べた初期の浜松藩の代官と同じような土豪的給人的性格の代官であること、また元禄期に代官職からはなれているという点は代官制度の転機を示すものとして留意したい。代官秋鹿氏も元禄十年以後は無役となり、本来の遠江国府八幡宮神主に専念している(『秋鹿家文書』)。