旗本領

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 元禄期遠江の旗本三十六人(前掲領主表)の知行高の内訳をみると三千石以上のいわゆる大身が二十二人におよび、大身層の多かったことが注目される。一般に旗本領の基礎は寛永(かんえい)二年(一六二五)台徳院殿朱印状に負うところが大きいといわれている。【金指気賀の近藤氏 大久保の服部氏】このことは当地方の伝統的な旗本である金指(かなさし)・気賀(きが)の近藤氏、堀江(ほりえ)の大沢氏、大久保の服部氏などの場合にもあてはまる(葵文庫蔵『記録御用所本古文書抄』)。【知行地】このうち、服部氏についてみると、寛永二年十二月十一日付の朱印状により服部権太夫(政信)は敷智(ふち)郡のうちで四千石(山崎・小人見・高塚・大窪・志都呂・篠原・神ケ谷・伊左地の八か村)と「所々開発之地」二百九十五石七斗余を合して四千二百九十五石七斗余の知行地を得ている。【関所奉行】権太夫はこの当時今切の関所奉行(前後二十一年間)であった。【新居関所奉行志都呂役屋敷】慶安(けいあん)元年(一六四八)から、服部中(保俊)が権太夫に代わって関所奉行となり、歴代の今切関所奉行の役屋敷(敷地は四千百七十一坪あったという)は元和五年から元禄九年まで、新居へ舟路二里といわれた志都呂(しとろ)村(当市志都呂町)に設けられていた。

近藤氏略系