堀江の大沢氏

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 旗本大沢領は明治維新の時に堀江藩(堀江県)として知られたところである。【大沢基胤】その先祖基秀(もとひで)は貞治(じょうじ)年間(一三六〇年代のころ)に遠江に入り、基久の時はじめて「大沢」を家号とし、以後代々堀江に住んだ。近世大沢家の基礎をきずいたのは左衛門佐基胤(もとたね)である。彼は戦国の世、今川氏に服属して堀江城を守っていたが、永禄十二年(一五六九)家康の遠州進攻にあって降参し、家康から旧領を安堵された(左表参照)。【大沢基宿】その後は家康に従って転戦し功をあげた(慶長十九年死去、年八十歳)。子の基宿(もといえ)(基宥)も家康に従い軍功をたて、関ケ原戦の直後に敷智郡六か村で千五百五十石余の本領を賜わった(上表)。
慶長八年二月、家康の将軍宣下の儀式にたずさわり、その後は摂家・門跡・諸公家の往来に際してその儀式をつかさどり、朝鮮琉球の使者にたいし披露役をつとめた。【高家】これより幕末まで大沢家歴代は幕府の高家としてその任にあたることとなった。
 寛永(かんえい)十七年に基宿が堀江で死去し(享年七十六歳、同地宿芦寺(しゅくろじ)に葬る)、子基重が遺跡をついだ。【知行地】その所領は前表にみるとおり庄内地区八か村と蔵松(くらまつ)(倉松)村の計九か村二千五百五十六石余であり、これが幕末までの旗本大沢領の基本的部分となった。こののち、宝永(ほうえい)二年(一七〇五)に千石加増され合計三千五百五十六石となり、それが基之の代(寛政のころ)にも継承されているが、加増分のその後の所属については明らかにしがたい。なお、大沢領については第五章藻草の項を参照されたい。

大沢氏略系

(表)大沢氏所領変遷表
年代永禄12慶長5寛永2寛永17寛文5元禄13宝永2
(1569)(1600)(1625)(1640)(1665)(1700)(1705)
領主基胤基宿基宿基重基重基将基隆基隆
領地名・石高崎村櫛敷智郡六か村村櫛村35村櫛村526父基宿の遺領つぐ村櫛  村櫛村571豊田
和田和田村325白須村344和田和田村325山名
無木堀江村671平松村80堀江堀江村671敷智
上田西村29蔵松村49西西村29 
石丸合計一五五〇石余呉松村451乙君(神田村?)三郡の内で計一〇〇〇石加増
呉松の内細田村42呉松呉松村461
和地の内細田細田村42
伊左地白須(白須村?) 
佐浜平松平松村80
内山内山蔵松村49
尾奈郷 
合計  6村15564村10009村10村25563556
  2556大沢領
備考  石未満切捨 庄内地区石未満切捨 
典拠家康判物寛修家譜台徳院殿朱印状寛修家譜幕府裁許絵図元禄高帳寛修家譜