【朱印地 除地】江戸時代の寺社領には朱印地と除地とがあり、『元禄高帳』によると両者の件数はほぼ同じであるが、石高の上では朱印地が約八五%におよび、格式の上からも朱印地が重視せられた。以下浜松地方の場合について考察する。家康は関ケ原戦の直後、慶長六年(一六〇一)当地方の寺社領を数多く寄進し、同八年将軍に補せられると寺社領に朱印状を与えた(『静岡県史料』五)。その後将軍秀忠や家光から加増をうけた寺社も相当数あった。寛文(かんぶん)五年(一六六五)幕府が全国の寺社宛に朱印状を下付するにいたって、当地方の寺社領もほぼ固定し、それが幕末まで将軍の代替りごとに継目安堵されたのである。幕府が寛文五年に「諸宗寺院法度」を制定していること、浜松地方の寺院の過去帳に村々の農民の名がみえる年代の上限は寛文年間のものが多いこと、などからも寛文期は幕藩体制下の寺院の基礎が固まった時点と考えたい。【集中する寺社領】ところで、当地方の寺社領の形態については、その集中形態、つまり特定の寺社領が一村または二、三か村にまとまっている場合を注目したい。そうした村々の組織や生活には何らかの特色が生じることも想像されるのである。『元禄高帳』から寺社領の集中を表示すればつぎのとおりである(表は、たとえば五社大明神の朱印高は三百石でそれは六か村に分布しているという意味、海老塚の石高は七十八石であるがそれは五社と白山社の領有であるという意味に解する)。【検地】享保六年に遠江の寺社領の検地があり、浜松領分でもこれが行なわれた(「旅籠町平右衛門記録」『浜松市史史料編一』)。