高林伊兵衛忠勝自筆一代記(浜松市立図書館蔵)
「一亥ノ秋(正保四年)より辰ノ秋(承応元年)迄六年親者人(忠吉)代官、浜松御領三万五千石六人して賄、其内代官上ケ申度由年々訴訟申、漸辰ノ年上ル、
同年御領分新田隠田、万御仕置改りさハかし、
一辰ノ年山下佐二兵衛(笠井村)じがひし果候、其跡久々公事有之候、
一巳ノ年(承応二年)有玉中惣検地入、
一同年在所より公事申かけ候、竜秀院御扱にて落着、役代金壱両出ス、
一未ノ年(明暦元年)手前控候新田野跡不残在ヘ取、畑ニ起シ、其後此方より訴訟候ヘ共不済、
一同年公事申かけ、公方ニて対決、公事ノ数十ニあまり、有玉中小百姓大形逢(相)手ニ成、申酉迄不埒ニて酉ノ(明暦三年)八月十一日落着、」
【公事】これによって、その当時浜松藩では検地によって領内の新田隠田(おんでん)に対する検出がきびしく行なわれ、これに付随して代官家のような土豪と小百姓との間に公事(くじ)(訴訟)が発生して、世情騒然となり、そうした背景のもとで忠吉は代官を辞任し、代官佐二兵衛は自害したことが知られる。【六代官】浜松藩の当時の六人の代官については、右の高林家・山下家の外に万斛(まんごく)村の鈴木家(権右衛門先祖)、伊場(いば)村の岡部家(半蔵先祖)が確認されるが、他の二家は不明である。彼らは、戦国武士の土着した家筋で、在宅勤務の代官に任命されたものと考えられ、その故にこそ代官の地位にも動揺があったといえよう。