在地土豪の初期代官

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 【高林家】浜松藩の初期の代官の中でその性格や任務を代表的に示しているのは高林家である。同家初代の助五郎ははじめ今川氏に臣従していたが、のち家康に服属した戦国武士であった。二代助五郎も家康に仕えたが、天正十八年家康の関東入りに際し、長上郡有玉村(当市有玉南町)に土着した。三代伊兵衛忠吉は正保四年(一六四七)浜松藩主太田資宗(すけむね)から代官役に任命され、浜松領三万五千石を支配した代官六人の中の一人として六年間在職した。同家の由緒書には、家康が浜松に在城のころから「御目見独礼」をつとめ、藩主松平乗寿(のりなが)・太田資宗の代に「代官」を仰せ付けられて「在宅勤仕」をしてきた家筋であると書かれている。【動揺する地位】三代忠吉が、代官に就退任したころの藩情について『高林伊兵衛忠勝自筆一代記』(『浜松市史史料編三』)につぎのように記されている。

高林伊兵衛忠勝自筆一代記(浜松市立図書館蔵)

 
「一亥ノ秋(正保四年)より辰ノ秋(承応元年)迄六年親者人(忠吉)代官、浜松御領三万五千石六人して賄、其内代官上ケ申度由年々訴訟申、漸辰ノ年上ル、
  同年御領分新田隠田、万御仕置改りさハかし、
 一辰ノ年山下佐二兵衛(笠井村)じがひし果候、其跡久々公事有之候、
 一巳ノ年(承応二年)有玉中惣検地入、
 一同年在所より公事申かけ候、竜秀院御扱にて落着、役代金壱両出ス、
 一未ノ年(明暦元年)手前控候新田野跡不残在ヘ取、畑ニ起シ、其後此方より訴訟候ヘ共不済、
 一同年公事申かけ、公方ニて対決、公事ノ数十ニあまり、有玉中小百姓大形逢(相)手ニ成、申酉迄不埒ニて酉ノ(明暦三年)八月十一日落着、」
 
 【公事】これによって、その当時浜松藩では検地によって領内の新田隠田(おんでん)に対する検出がきびしく行なわれ、これに付随して代官家のような土豪と小百姓との間に公事(くじ)(訴訟)が発生して、世情騒然となり、そうした背景のもとで忠吉は代官を辞任し、代官佐二兵衛は自害したことが知られる。【六代官】浜松藩の当時の六人の代官については、右の高林家・山下家の外に万斛(まんごく)村の鈴木家(権右衛門先祖)、伊場(いば)村の岡部家(半蔵先祖)が確認されるが、他の二家は不明である。彼らは、戦国武士の土着した家筋で、在宅勤務の代官に任命されたものと考えられ、その故にこそ代官の地位にも動揺があったといえよう。