独札庄屋

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 浜松藩の庄屋については「独礼」すなわち年頭その他の節に藩主に単独でお目見できるという格式の庄屋があったことが注目される。【古独札】『高林家文書』によると、正保・承応のころに有玉村高林家・万斛村鈴木家・伊場村岡部家・笠井村山下家が「独礼」であったが、同家文書文政十年の書上では、当家が年頭・参勤・参府の際にお目見独礼をつとめるのは家康在城の時に由来し、その後松平和泉守・太田備中守の御代に代官役を命ぜられ「古独礼基本之者」の一人として代々うけついできた、とある。延宝七年に、藩主が浜松城内の大広間に領内の庄屋たち(万斛組七十一人・町組五十六人・浜辺組六十六人・国領組八十五人)を引見した際、宇布見(うぶみ)村の源左衛門・伊場村の権兵衛・有玉村の伊兵衛・万斛村の次郎助・羽鳥村の茂五郎の五人が「先例」により「独礼」庄屋の格式で一人ずつ藩主の前に出て挨拶をした(青山家資料『仰青録』)。【新独札】元禄のころには、このような独礼庄屋間の序列をめぐる競望がおこっており(『岡部家文書』)、近世後期には「古独礼」と「新独礼」の別が生じた。【組頭】組頭は庄屋の補佐役として時期的にも庄屋にひきつづいて出現しているが、村の中の各種の組の代表としての性格も有した。【百姓代】百姓代は時期的におくれて、一般的には元禄のころになって、農村の変化にともない、庄屋組頭に対する目付役として惣百姓の代表として出現したもので、その呼称も多様であり、浜松藩でもこの点同様であった。【組と講】近世の農村には組や講があって、村落生活の基本的集団になっていた。組は、領主層からの要求にもとづくものと、村落内で自発的に結成されたものとに二大別される。【五人組制】五人組制度の本質は前者にあり、天領で早くから(寛永・承応のころ)普及したといわれている。浜松藩の五人組制の起源は明らかでないが、元禄十六年(一七〇三)に松嶋村から藩主に提出された「五人組手形之事」(五人組帳)は五人組制に関する史料として早い方の例であるとみられ、その前書は三十七か条におよび、領主法の村法転化を物語っている(『松島家文書』)。享保十三年(一七二八)の福嶋村(『山田家文書』)および有玉下村(『内山家文書』)の五人組帳も大同小異である。【村差出張】村差出帳(村明細帳)は領主宛に村から報告した村勢一覧ともいうべきもので、一般的には元禄時代にその形式が整備したという。浜松藩の場合、松嶋村で元禄十六年に新藩主(松平資俊)に提出し、この後領主更迭のたびに村差出帳を出す慣例になったと記録されていることが注目される(『松島家文書』)。宝永五年(一七〇八)伊場村差出帳から、同村の石高・貢租・戸口階層・用水・稼方などがわかる(『岡部家文書』)。【宗門改帳】その他にキリシタン取締りに関連した宗門改帳(人別帳)や「人別牛馬犬等御改帳」などが作成されている。

宝暦二年下都田村五人組帳(浜松市都田町 坂本柳次氏蔵)