交代ひんぱんな譜代大名という特質から浜松藩主と領地領民との結びつきは強くなかったといえるが(前述)、時折の接触はあった。藩主青山家に関する日記『仰青録』には三代の城主の公私にわたる生活日課や動静が活写されているので、その一節を、原文に近いかたちでつぎに抄録紹介してみよう。(浜松市史編纂室所蔵の筆写本による)
(一)延宝七年(一六七九)四月より十二月までの条(青山忠雄)
四月九日―登城、上意之趣(父の遺領相続のこと)老中列座にて仰渡、直ちに御老中へ御礼勤。【遠州松茸】九月二十五日―遠州松茸三十本を将軍家へ献上。十月十三日―江戸発駕。同十九日―浜松城着、城受領の儀あり、礼物(樽肴)を老中へつかわす。【米津浜】同二十日―御城廻。同二十三日―御家人屋敷見分、米津浜辺地引網被仰付(御供磯谷次郎左衛門その外、御先鉄砲五挺、御騎馬弓二張、御持筒二挺その他御供例の如く……)。【三方原】同二十六日―午后刻味方原(三方原)御覧ニ出、申半刻(午後五時ごろ)お帰り。同二十七日―井伊伯耆守殿(掛川城主)の使者来り、これに御料理・時服を下賜、近藤殿(気賀領主)の使者来り、これに羽織を下賜、十一月朔日―雨宮権左衛門様よりの使者白雁持参、これに対し羽織を賜い町屋にて御料理を賜う。【浜名納豆】同四日―将軍家へ献上の浜名納豆を差立。【犀ケ崖】同六日―申刻犀ケ崖騎射場御覧に出、即刻お帰り。同八日―長谷川殿(代官)より酒肴の使者来り、これに羽織を賜う。同十七日―大膳亮様(青山幸利、尼崎城主)江戸参府の途次浜松泊(杉浦助右衛門宅)につき、みかん・野菜類をたずさへ旅宿へお出まし、即刻お帰り。【二の丸】同十八日―大膳亮様答礼のため太刀・ラッコ皮三枚・馬代金十両を持ち二の丸へ参上、これに対し鮒鮨一桶を賜う。同二十一日―出家・社人参上御礼。同二十二日―庄屋年寄問屋共御礼に参上。同二十三日―殿様大広間へ出御、御領分の庄屋共参集し樽一荷肴三種差上(このあとに前述した「独礼」庄屋のことを記す)。十二月十一日―将軍家へ献上のみかんを明後十三日に差立てること。【三の丸】同十五日―三の丸(御位牌所)へ焼香に御出、御家人衆参上。【米津浜】同二十二日―米津浜で箕浦又市の弟子共に鉄砲仰付、五十目筒・三十目筒十五丁枚打。【入野鮒】同二十三日―召抱絵師の小田・狩野の両人を御引見。同晦日―町飛脚を立てて入野鮒を御献上。
(二)貞享二年(一六八五)正月の条(浜松在城中)
【本丸】元日―辰下刻(午前九時ごろ)御書院で伊勢お祓いをうけ、終わって御座の間で年寄衆をお目見、巳刻本丸へ御出。三日―御謡初。【政法仰出】五日―御政法初につき仰出、一、領内の百姓町人で養育人のない八十歳以上の者ならびに十歳以下の孤子を賑恤する、一、百姓は堤川除樋井関見廻り油断なく耕作に精出すこと。十七日―本丸の矢場にお出、弓場始、例年の如く大般若転読、同夜お日待を行なわる。二十二日―家中の弓を御覧、足軽共の弓も御覧。二十六日―本丸矢場で箕浦又市の弟子共の鉄砲を御覧。
【参勤】この年六月九日―参勤のため浜松発駕。同十四日―江戸着府。
【高町の桜 羽鳥の鮎】以上のほかに、本日記には高町(たかまち)の桜見物、羽鳥村の鮎漁見物、領内村々からの駒引御覧、水引(押)汐入の村々巡見、御城米や家中の綱紀に関すること、近隣寺社参詣など城主の動静が記録されており、全体として直接間接に領地領民との接触がうかがわれる。なお、当時参勤交代が規定のとおり行なわれていたことも知られる。