国入と領民

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 元禄十五年(一七〇二)に丹波亀山へ転封となった青山御家中の「引越」を舞坂宿まで送るため高百石につき馬半匹ずつの役が領内に申し付けられている(『下大瀬村年代記』)。このようなことは、宝暦八年に松平資昌が丹州宮津へ所替になった時にも行なわれている(「御所替ニ付送リ人馬賃銭触帳」『岡部家文書』)。新藩主の御国入りに際しても領民の歓迎行事があったことは前述の『青山家日記』からも知られる。これについて幕末期の事例をつぎに述べよう。
 弘化三年十月二日、井上正春(まさはる)の得替(とくたい)御祝儀が行なわれ、領内村々の庄屋が麻上下を着用して城中(新台所)へ召し出され、酒肴吸物赤飯を頂戴した。翌日城中で一村ごとに組頭・惣百姓(小前)へ酒肴が渡され、翌四日に庄屋宅でこれを配分した。有玉下村の場合は、組頭四人に酒一升二合・干肴二十枚、惣百姓八十六軒に酒一斗七升二合・肴二百五十八枚(肴は代銭支給)が、組頭治右衛門・百姓代弥兵衛の両人へそれぞれ渡された(「有玉村高林家諸用記」『浜松市史史料編三』)。
 嘉永六年六月には殿様(正直)の浜松城着(七月)にそなえて、藩役所からつぎのような趣旨の廻文(配符)が領内村々宛に出されている。―一、先格のとおり庄屋は麻上下着用、東御領分境(薬師新田)へ出てお目通りすること。一、在城中に殿様が領分の村々御巡見・御遠乗・御鷹野・御殺生などをなさる際の道筋を修繕しておくこと。一、右の際、百姓共が通行先きで出会った時は早速片側により平伏せよ、当日はなるべく出会わないように心掛けよ、農業をしている時でも不敬のことがないようにせよ。一、右の際、通筋にあたる村々では、簾内から拝見または覗くことや音曲高声などを堅く禁ずる。一、右の際、急に御休所を申し付けられた時は掃除など入念にせよ、前日に沙汰があっても大工などをいれて目立つような修繕をしないこと(『有玉村高林家諸用記』)。

寛政十年正月年始席次 浜松宿諸職記録 部分(浜松市紺屋町 中山忠平氏蔵)