【年貢の率 免】徴税は封建支配の大眼目であった。浜松地方の在郷にも年貢割付状・年貢勘定帳・年貢皆済目録が多く伝存している。年貢の賦課納入は村単位で行なわれたこと(村請制)に注意する必要がある。また、年貢割付状の形式をみると、初期には短く簡単であったが、元禄のころから内容が詳細になり長いものになった。このことは幕藩領主権力の確立による徴税の強化と生産力向上とを反映したものである。年貢割付状などから「免(めん)」(年貢率)がわかる。たとえば、元和七年(一六二一、高力氏時代)の白羽村では本田三ツ六分(三六%)新田三ツ、元禄二年(一六八九、青山氏時代)の早出村では本田六ツ一分、新田は四種(四ツ七分、三ツ九分、三ツ一分、三ツ二分)であった。【定免制】前期の免は年ごとの実収に応じてきめられたが、一般的に正徳・享保のころから数年間の平均をもとにして毎年の免を一定にした「定免」を採用する領主が多くなった。
享保十四年有玉下村年貢割付状 前部・後部(浜松市立図書館蔵)