浜松藩では本庄松平氏の時代に田畑年貢の増徴がみとめられる。これは次の表からも察知されるし、元禄十六年の貢租目録(「浜松領諸役御高帳」『岡部家文書』所収)によっても確認されるのである。そのうえ、この目録によると、小物成の収奪が強化されている(野方下草山手米・林野方萱葭代・糠藁入草代・浜運上・船年貢漁猟運上・塩運上など多様で、貨幣納分も多い)。【米納と金納】税負担の重さは米納制か金納制かによっても左右される。米相場や貨幣価値の変動があるからである。下大瀬村では寛文九年の分村の時以後畑年貢が金納制になり、その後年貢米の相場の上下や享保三年の「新金」切換のことが村民の関心事になっている。【石代納】石高制にもとづく米納年貢制の変容とみられる石代納制の普及には年代差地域差がみられるのであるが、石代納をめぐって領主と農民にはそれぞれの思惑や希望があった。享保十九年に幕府は石代納に関する全国的・統一的な規定を実施した。すなわち、採用する米の相場地と平均日限を指定したのである。【遠江の米相場】遠江国の場合は金谷・舞坂・浜松・掛川・袋井の各市場の米相場によるものとされている。文化年間のことであるが、油一色村あたりの「皆畑金納村々」は、近年各所に米相場会所のごときものが催され米相場がみだれているために我々は「難渋」している旨を領主に訴え出ている(『渥美仁平家文書』)。このような税の納め方(とり方)が農民の生産活動の形態を変えさせるという一面(換金作物や加工業のごとき)を持っていたということは後にふれる。