寺島八幡地の年貢

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 浜松藩領「寺嶋八幡地」の年貢は、きわめて特色のあるものであった。【高免地】この土地は、いまの浜松市砂山町から寺島町にかけての一帯にあたり、江戸時代には浜松宿の町々や近村の者が入会的にこれを所持用益し、幕末のころ『破地士等窠(はじしらず)』の筆書により「浜松城付高ノ内ニテ寺島八幡地……九ツ三分九厘ノ免(めん)也、是れ日本無類高免成故、其地ヲ所持スル百姓ハ古来ヨリ困窮ニテ田地相続出来難キ事(こと)……」と評されたところである。寺嶋八幡地のことが史料の上で早くみられるのは延宝八年である(一五五ページ参照)。その後元禄・宝永・正徳・享保期に災害による年貢の検見引が行なわれており、主作物は木綿大豆であった。【田地高】同地の田地高は、『元禄高帳』によると、寺嶋村のうち四百五十五石五斗五升、八幡村のうち百三十石五斗、二口合高五百八十六石五升であり、これが江戸時代を通じて浜松藩領寺嶋八幡地としてほぼ固定していたのである。【由緒】文化十五年の寺嶋八幡地の由緒書(『糀屋記録』)の要旨はつぎのとおりである。
 寺嶋八幡地の起こりは家康治世の初め、家中へ「馬飼料御手当」としてあたえられたもので、この田地が「糶(せり)合高免」となった。元文より寛保年間までの年貢は免九ツ三分五厘六毛(米)、麦一反につき八斗九升壱合八勺四才であった。城主からの「御下ケ金」を貸し付けた利子と年貢引米・御用捨米とにより田地の相続を仰せ付けられてきた。
 江戸中期と推定される寺嶋八幡地の年貢の実態を『糀屋記録』によってつぎに示そう。田地高五百八十六石五升に対する年貢米は五百三十七石余(米千五百三十四俵余)である(免約九ツ二分と算出される)。これに麦年貢千三百四十四俵が加わるのである。【上納者】その上納者は浜松宿の十九か町(地持町)・町の住人七人(地持)・四か村であった。上納の内訳をつぎに表示する。
 寺嶋八幡地については、以上にのべた高免の問題の外に、藩主および地持の対地関係についても不明の点が多く、謎の藩領というほかはない。
 
(表)寺嶋八幡地年貢上納 (単位俵未満切捨)
上納者品目(数量俵)
鍛冶町5757
肴町163181
神明町5756
連尺町7585
伝馬町267294
紺屋町7049
利町176
清水町11
大工町64
本魚町1910
旅籠町124126
塩町3033
平田町67
田町203160
板屋町6356
新町1614
池町281斗9升余
早馬町373
名残町30
寺嶋村166160
八幡村290
伊場村90
東鴨江村60
   
1藤左衛門162
2九郎左衛門50
3次左衛門30
4若杉65
5藤左衛門31
6九郎右衛門22
7半左衛門40
総計15341344