松平資俊(すけとし)はつぎの系図のように五代将軍綱吉といとこの間柄であった。
父の本庄宗資は姉の桂昌院を介して、館林殿の御家人(五百石取)となり、綱吉の将軍就任(延宝八年)以後はしだいに所領を加増されて、元禄元年には大名(万石)に列し、そののち常陸の笠間城主となった。宗俊(のちに資俊と改名)は幼少の時から綱吉のもとに伺候し、元禄十二年父の遺領をついだ。【浜松入封 七万石】同十五年、桂昌院の御使として京都にのぼることになったので侍従に任ぜられ、二万石(備中国四郡のうち)加増の上で浜松城主七万石(五万石は遠江国内)に封ぜられた。その後まもなく宝永(ほうえい)二年には将軍の慶事に托して「松平」の称姓をゆるされ豊後守となった。この時に資俊の一族姻戚の者九人が所領を加増された。資俊は享保(きょうほ)八年(一七二三)六十四歳で死去した。