【東海道】近世の政治の中心江戸と京都、経済の中心大坂とを結ぶわが国の大動脈であり幹線道路である東海道に沿い、五十三次の一宿場町として栄えた浜松にとって、この東海道が生命であることはいうまでもない。【姫街道】その脇往還として姫街道のあることも周知のとおりである。しかし浜松は宿場町であるとともに浜松藩の城下町である。いわば地方的中心都市である。したがって領内交通も考えねばならない。また近隣には掛川(かけがわ)・横須賀(よこすか)の城下町がある。掛川は東海道に沿うので別に問題はないが、横須賀へはどの道を通って行ったであろうか。そこでまず、東海道に結びつけて浜松を考えるまえに、浜松自体を中心とする交通系統をみることにしよう。
享保六年(一七二一)町奉行からの尋ねに対して、浜松から本坂(ほんざか)道・鳳来寺(ほうらいじ)道の交通路について差し出した書付(『浜松市史史料編一』)は、近世中期における浜松からの交通を考える場合の好資料である。つぎにその要点を示そう。
【本坂道】「一浜松より本坂通り道筋并山々江之道法
浜松追手御高札場より当所名残新田札木まで拾六丁三拾壱間、名残新田札木より小豆餅と申所迄弐拾五町二十間、小豆餅より追分三辻まで拾弐丁四十間、追分より大谷と申所迄三十弐丁十間、大谷より気賀御番所まで三十丁三十間
右之道法、都合、浜松追手御高札場より気賀御番所まで三里九丁十一間
気賀御番所より三ケ日村まで弐里三拾壱丁、三ケ日村より本坂峠江壱里五丁
右之所より洞が峯まで往還筋より脇五丁程上る
浜松より洞が峯まで道法、都合、九里弐拾四丁拾壱間
【三嶽道】一三嶽山までの道法
浜松追手より金指迄三里弐拾壱丁、金指より三嶽山江壱里上る
【鳳来寺道】一鳳来寺御薬師堂までの道法
浜松追手より金指迄三里弐拾壱丁、金指より井伊谷村江十八丁、井伊谷村より花平村江拾七丁、花平村より井平村へ弐拾五丁、的場・黒田村・山吉田・大野を経て鳳来寺薬師堂まで都合、道法、浜松より拾弐里九丁
【秋葉道】一秋葉山御堂までの道法
浜松より光明山御堂まで道法六里拾八丁、光明山より犬居まで壱里弐拾五丁、犬居より秋葉山御堂まで壱里、都合、道法、浜松より九里九丁
一浜松より富士山下大宮まで道法三拾五里三拾丁、但し蒲原宿より入る道筋にて
一浜松より日坂宿まで道法九里三拾四丁
【横須賀道】一浜松より横須賀町まで、中泉より入参候道筋にて七里七丁
【藩の境】一浜松より高塚村御知行境江壱里拾三丁五十壱間七尺
一浜松より安間御知行境まで壱里拾六丁弐拾六間五尺
御知行境より境まで道法弐里三拾丁拾八間弐尺」
この記録は東海道の幹線道路を一応度外視して、浜松からの他の主要交通路を示したものであるが、浜松から本坂通りの道筋も判り、また鳳来寺道への道筋、城下町横須賀への道筋もはっきりしている。なお浜松領の西境高塚村から東境安間村までは二里三十丁余となっているのも注目しなければならない。
【秋葉街道】つぎに秋葉講で参詣者の多い秋葉山参詣道筋については、連尺町追手札之辻から神明(しんめい)町・田町・池町・下垂(しもだれ)町・元目(げんもく)・池川村・天林寺に出て
「中沢・高林・上島、此村はずれ川有、川幅六間程有、歩行渡り(有玉川歩行渡、人皆難渋に付、安永年中より橋板かけ渡る、此橋馬橋という)、有玉村此村まで浜松追手御高札場より道法壱里拾四丁四拾壱間程有、万石村・西ケ崎村・木舟村・蟹沢村・新原村・芝元村、鹿島此所川有、舟渡し川幅壱丁程有(中略)、浜松追手御高札場より秋葉山御堂まで道法九里七丁」
この秋葉街道は、さらに伸びて遠・信の国境青崩峠を越え信濃国に通じていた。