浜松の交通圏

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 『旅籠町杉浦日記』(『浜松市史史料編二』)には文化十年(一八一三)ごろの近在人馬賃銭割として、浜松宿から近在の三十七か村にいたる人足一人あたり、本馬一疋あたり、軽尻一疋あたりの賃銭が記されている。これは浜松宿と日ごろ深い交通的つながりがあるため定められたのであろうから、これによって浜松の交通圏を求めることができる。かりに浜松宿の中心部から一二キロの半径で円を描くと、これらの三十七か村はことごとくこの円内におさまり、東の方は天竜川を越えて見付宿近くに達し、西の方は浜名湖の東岸まで拡がっている。
 【内圏と外圏】さらにこれを分析すると、内圏と外圏とが現われる。内圏は半径三キロの円で、人足だけの交通圏であり馬を使用しない。注目すべきことは、この内圏が後述するところの初期定助郷圏と一致するという点で、江戸時代初期における浜松宿の勢力圏を大体示しているもののようである。半径一二キロの外圏は人足と馬との両方が使用される交通圏である。換言すれば馬の使用される範囲は半径三キロと一二キロの間に限定され、すなわち、上限と下限との二つの限界がみとめられる。そしてこの内圏は現在ほとんど市街地化しており、外圏は現在の都市浜松の勢力圏と大体一致し、近世中期の勢力圏と現在のそれとがほぼ同一であって、地域的ひろがりにおいて差異がないということは興味深い事柄と思われる。