本坂道

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 姫街道は東海道の脇往還である。公儀では本坂道・本坂通・本坂越などと呼んだ。これはこの街道筋にあたる遠・三両国国境の本坂峠が最難所であったためである。永禄十年(一五六七)連歌師里村紹巴(さとむらしょうは)は、気賀から「本坂越は道止れるとて」小引佐峠を越え浜名湖を舟で渡っている(『紹巴富士見道記』)。本坂越の名称の古いこと、また本坂峠がしばしば杜絶したことがわかる。【道筋 安間新田】姫街道の江戸時代の道筋は、東海道五十三次の遠江見付宿から三河御油宿にいたるもので、見付宿から天竜川を渡り安間新田(当市安間町)で東海道と岐れ、三方原へ上り追分を経て浜名湖北岸を迂回、三河国に入り、御油付近でふたたび東海道に合するもので、その距離は十五里十四町あったという。しかし、この道筋の一部には諸説があり、後述する。