【浜松宿への影響】これは浜松宿をはじめ東海道の諸宿にとって「御役難勤渡世経営不罷成迷惑」のことで、宝永六年三月には浜松宿をはじめ舞坂・新居・白須賀・二川・吉田の六宿よりの「見付宿より市野村、御油宿よりすせ村江人馬継立不申様に被為仰付被下候は、難有奉存候」という歎願となった(『浜松市史史料編二』)。その結果本坂道通行の差留となったのが享保二年(一七一七)十一月で、地震以後十一年目であった。といっても、享保三年四月には浄円院(将軍吉宗の生母)の通行があるというようなわけで、やはり本坂道を往復するものはあとを絶たなかったのである。このとき動員された人馬は嵩山から袋井までの六宿で五千九十二人、馬千八百十七匹であったという。