本坂道停止令にもっとも打撃をうけたのは市野宿であった。文政十三年(一八三〇)に市野宿役人惣代が道中奉行宛に差出した文書(市野村旧本陣『斎藤文書』)によると、市野村は「東海道浜松宿最寄、本坂往還、気賀・見付宿前後四里宛之場所」で宝永・正徳のころまで「市野宿」ととなえ本陣問屋もあり諸家様の御通行御休泊はもちろん人馬の継立など「宿並之通」であった。ところがこのころから浜松・市野宿との間に紛争が生じ「市野宿は潰れ」た。そしてその後は帳元問屋を置き「宿場に准シ候村方」として人馬継立役を負担してきたというのである。『有玉村高林家諸用記』にも、これと同様の記事が天保十四年(一八四三)にあり、市野宿が潰れたのちは「本坂筋も浜松より気賀江御通行ニ相成、安間村より三方原追分迄者潰往還ニ相成申候」とある。なお市野宿は文化九年(一八一二)九月七日火災があって十二軒ほど焼けている。
ところで、浜松宿と気賀宿との間にも人馬の継立が行なわれていた。そのため浜松宿・見付宿と市野宿との間に紛争のあったことは『斎藤文書』がその消息を伝えているし、浜松宿が市野宿を宿としてみとめていなかったことは宝永六年の六宿の歎願書によくあらわれている。