二筋の姫街道

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 【浜松道】いずれにせよ、時代がくだるにつれ、見付宿から東海道を西進し、浜松宿大手門前で東海道と岐れ、さらに高町・名残町を経て、三方原の追分にいたる道筋が姫街道といわれるようになっていったのである。享和三年(一八〇三)八月本坂道普請のため見分が行なわれているが、そのときも気賀から浜松へ出ているし、天保十四年『東海道浜松宿大概帳』(『浜松市史史料編三』)にも本坂通として「大手前」が浜松からの起点となっている。【市野道】といっても宝永以後市野宿はまったく廃絶したのではなく、宿場に準じ「井伊家・近藤家・三州鳳来寺・遠州奥山方広寺」などの「無拠継立」は、人足六十人・馬三疋を常備して行なっていたのである。なお市野宿に対する助郷はなく、その代わり宿並の扱いであったので、助郷差村に指定されたこともなかった(『斎藤家文書』)。
 したがって姫街道の道筋は、時代によって二筋あったとみるのがもっとも妥当の見解といえよう。現に安政三年の絵図には、浜松宿を経て追分にいたる道を姫街道、安間から市野を経て追分までを市野道と記してある。近世前期の本坂道や市野宿の状態などは、「青山御領分絵図」によって、くわしく知ることができる。

姫街道の松並木(浜松市三方原付近)


姫街道地図