馬籠渡船

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 近世の東海道筋天竜川には橋がなく、渡河は船渡しであった(将軍・朝鮮人・琉球人来朝など特別の場合には船橋が臨時に設けられた)。【船越村 天竜渡船 池田村】近世の交通制度の多くが戦国大名の施策に始まったように、天竜川の渡船制度も家康の遠江入国経略に起源するもので、天正元年(一五七三)十一月に「遠州馬籠渡船之事」「遠州天竜池田渡船之事」という同趣旨の渡船掟を船越村・池田村の船頭あてに与えたことによって確立したのであった。その要旨は、関係村の船頭(船越村二十四軒、池田村三十五軒と解される)に渡船役負担を義務づけると同時にその代償として屋敷の年貢および諸役を免除し(船越の場合は、近世後期を通じて村高の内、天竜船越役料として七十石が除地となっている)、さらに遠江国一円から年二回の「勧進物」を徴収する権利を与えたという点にある。【渡船規定】つぎに船越村宛の掟の主要部分を掲げておく。
 
 「  遠州馬籠渡船之事
 一川上川下雖為何之知行、地形於可然地船可通用之事
 一棟別弐拾四間、此屋敷分扶持被出置(下略)
 一於分国中夏秋両度升を入、致勧進之由申定之間可為先規事
 右条々有河原昼夜令奉公之条、停止諸役永為不入免許」  (下略。「水野文書」『静岡県史料』五)
 
 この掟は権現様御由緒として、その後、渡船稼業をめぐる川筋村々間の競望や、「横越渡船」に関する紛争(文化年間の一例は第五章商品流通の項参照)に際しその権威を発揮し、渡船場支配権の固定に役だった。【馬籠と池田】ところで掟にみられる馬籠と天竜池田との関係はどうであったか。これには早くから疑義があったらしく、延享四年(一七四七)の船越側の文書には「先年天竜川之内馬籠渡船と申所ハ何処ニ而何船渡候哉」「右馬籠渡之処当時の渡船ハ無之哉」「馬籠村も船越村之内ニ而有之候哉」という幕府からの「御尋」に対する答申がみえている。【天竜川の流路の変遷】これは天竜川の河道の変遷がいちじるしく、その名称もさまざまに変化し、そのことが文献にも反映し、人々の理解に混乱を生じていたことを端的に示したものである。【小天竜 大天竜】『遠江国風土記伝』に引用されている『甲陽軍鑑巻十四』所載という天竜川絵図によると、当時の天竜川は二俣近辺から東西に分かれ、西が「小てんりう」、東が「大てんりう」となっている。これを正保の図と比べると、近世初期の天竜川の流路・名称がわかる。