以上を要するに、小天竜馬込川は正保・慶安・承応以前にその水量を減じ、しだいに閉塞縮小への途をたどりつつあったといえよう。このような河川の流路の変化が浜松地方の町村形式・産業経済の動向に多大な影響を与えたことは後にもふれるが、ここでは交通への影響として「小天竜馬籠渡船」(船越村の文書ではこのようにいう)の廃絶に関連して述べる。渡船に依存度の強かった船越村は、先規格式を以って「二里」もはなれた天竜川渡船に加入することを幕府に歎願した結果、天竜西川で池田村と「隔日」に(一か月のうち十五日)渡船に従事することを許可された。当時、平常時の天竜川は中央の川原をはさんで東西に分流し、浜松側を西川、小天竜川などと呼んだ。【渡船位置】また天竜川の渡船場の位置であるが明暦・万治のころまでは(道中記その他)、東は池田の下手(しもて)の長森(ながもり)と西は中ノ町を結ぶ線であったが、その後、やや川かみにあがって、池田宿と子安森をつなぐ線に落ち着いた。ただし、川流川道の変化にともない若干の移動があったことはいうまでもない。「青山御領分絵図」(延宝年間の成立と推定される)によってこのあたりの景観を示したのが左の図である。

天竜川渡船場図 青山御領分絵図 部分