定助役

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 【船 人足】寛政四年の書上帳によると、定助船九艘が近隣八か村に、定助人足が別の九か村に、また大助船四十四艘が二十五か村に、大助人足が十四か村にそれぞれ割り付けられている。その村名その他は、天保期の『東海道浜松宿大概帳』にも詳細に述べられている。【船賃勧進】かの天正の掟書にみえる船勧進物の徴収は近世を通じて励行された。それは渡船の修築収造など経営費にあてられ、残りは渡船方の者に配分されたのであるが、船賃収入に類するものとして、すなわち勧進物を納入した村々の者は無賃で渡船することができたところに特色があった(船賃勧進)。近世後期における遠江の村々の村入用帳の類には天竜渡船料納入のことが散見される。たとえば、宝暦十年の伊場村では「米二斗八升五合 船越村船賃米 銭九六四文 池田村船賃銭」とある(『岡部家文書』)。寛政四年(一七九二)の国中勧物帳写によると、米・麦・大豆・金・銭・紙が九百五十七か村(遠江国の総村の九〇%に近い)から集められている。また船越村の取集高は池田村のそれの三分一程であったという。しかし、滞納問題も起こっており、勧進物を納めていない村の者どもが無賃で渡船することは「御文言」にそむく行為であるとして、渡船方から強い制裁を加えられることもあった。
 このように、公用の武士や勧進物納入の村人は無賃であったが、一般の旅行者には幕府が定めた渡船賃が適用された。しかし、「船頭のわたくし」によって御定賃銭に「かきましてとる」ことがしばしば行なわれたことは万治年間の道中記以後の諸記録に見える。
 天竜川の渡しと今切の渡し(関所を含む)とは海道交通の障害であり、要所であった。この間に位置した浜松宿への影響も少なくなかったことは川留川明の事例(『東海道浜松宿大概帳』)からも察せられる。池田村渡船方や船越村にとって、渡船は生活の資であったから、両村は渡船制度の特権存続に力をいれたのであった(以上、特記した場合の外は、船越町『水野家文書』、池田村『大庭家文書』『大橋家文書』、小山正氏所蔵『天竜川渡船資料』、松井秀次「近世における天竜川の渡船制度」『史潮』第四十四号による)。