川留と川明

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 前に述べたように天竜川を東海道が横切る場合、左岸の池田村と右岸の富田村(当市白鳥町)の間が船渡しになっていた。この間、東堤と西堤とのへだたりは八丁余もあるが、大天竜の常水川幅は二十五間、小天竜は百聞余であった。しかし大雨が降りつづくと天竜川は増水し、川幅一ぱいが急流となり船渡しは中止となり、旅人は浜松や見付の宿に逗留して、その川明を待たなければならなかった。その川留・川明について『東海道浜松宿大概帳』には、
 
【川会所 川立札】「此川留明之節ハ支配御代官并宿方より道中奉行江注進いたし来る、且 御朱印御証文御状箱御用物等継送候節川留有之候得は、上り之分池田村川会所江留置村方より番人付置見付宿より持人足罷越川明次第早速継立いたす、下り之節は一色村江留置村方より番人付置浜松宿より持人足罷越川明次第早速継立来る、川立札之儀は池田村地内、川向ハ中野町村地内、川会所弐ケ所に掛有之、尤高札場之儀ハ村方自普請に建来り候由、
 【川高札】 一川高札ハ正徳元卯年(一七一一)東海道筋一統相建候節、天竜川御定賃銭高札也、其外賃銭割増有之候節、右傍江建添ニ相成、是を大小天竜川江建置、建替之節は支配御代官役所にて取扱来る、
 【渡船高札】一渡船高札場弐ケ所
 内壱ケ所 池田村横町下渡船場   壱ケ所 中野町村東往還左側」
 
と記されており、その高札に書かれた主な内容はつぎのとおりである。
 
「一役船御定之ことく懈怠なく出し昼夜相勤へき事
 一往還人多き時ハ寄船を出し人馬荷物等無滞渡すへし
 一荷物付なから馬を船にのせ候儀相対次第たるへき事」