庶民の宿泊するのが旅籠屋であった。【九十四軒】天保十四年旅籠屋九十四軒、戸数に対し五・八%(『旅籠町杉浦日記』には九十八軒)で、そのうち大十九軒、中二十二軒、小五十三軒であった。遠江見付宿では、表間口間数や畳数を考慮にいれて畳数三十畳以上を大、二十畳から三十畳前後を中、二十畳以下を下としたようだという(『磐田市誌』)。もっとも旅籠屋の数は時代によって消長があり、元禄十六年百五十軒より大分減少している。【寛永期 宝暦期】『浜松宿御役町由来記』によると、元和の末から寛永にかけて宿駅も繁昌し、家居もたくさんでき「旅籠屋家作等も奇麗に仕」、宝暦・明和へかけて「往来旅人も賑敷、旅籠屋相営申候者共分而相応ニ渡世仕、見世向美麗ニ取繕、下女も大勢抱置、至而繁昌仕候由」といっている。【文政期】ところが『旅籠町杉浦日記』によると、文政二年旅籠町・伝馬町の旅籠屋が維持困難というので「御救方願書」がでている。これによると、大名たちの通行があってもこの節は、供廻りの者も省略され旅籠屋代も諸式倹約のため十分に支払われない、このため家作修覆もままならず座敷を縮少したりして、ようやく借金によって経営をしている。両町だけで修覆を要するのが九軒あるといっている。
「それよりかやんば薬師新田をうちすぎ鳥居松近くなりたる頃、浜松の宿引出向ひて、やど引『モシ、あなたがたア、おとまりなら、おやどをお願ひ申ます』 北八『女のいいのがあるなら、とまりやせう』 やど引『ずいぶんおざります』 弥二『とまるから飯もくはせるか』 やど引『あげませいで』」
これは十返舎一九の『東海道膝栗毛』にあらわれた浜松の宿引き風景である。