天保年間における問屋場は一軒であるがこれには経緯があった。【問屋会所】慶長六年(一六〇一)伝馬町にできた問屋会所は間口二間、奥行四間の小さい建物であった。建物ができるまでは番屋を車の上に立てて、それを引き廻して門々で勤めたものだという。【問屋役】問屋には宿役人が勤めていたが、問屋役は杉浦助右衛門家であった。助右衛門家は伝馬町の名主の家柄で、本陣を営んでいた浜松宿の名家であった。【当番制】ところが往来が頻繁になると一人では勤めがたくなったので、寛永八年(一六三一)から二人で上下月番で当番制となし、おもに伝馬町・塩町からだんだん問屋場として整備されてきたのだという(『旅籠町平右衛門記録』『浜松宿御役町由来記』)。この問屋の補助役として五人組が隔日に五人ずつ帳付、それに肝煎二人、あわせて七人で勤めていたのである。したがって中期の問屋場と比べると、すこぶる趣を異にしていた。
東海道の交通が頻繁となり、常備人馬数も増加し、役町も六町を数えるにいたり、問屋場の数も増加し事情も変化してきた。享保九年(一七二四)宿吟味のため、代官が浜松へ来て、問屋役人の勤方を尋ねたときの答申によると、
【人馬問屋 会所 御継飛脚 会所】「当宿之義ハ、人馬問屋会所弐ヶ所、別ニ御継飛脚会所壱ヶ所右三ヶ所ニて往還御用相勤申候
此訳
伝馬町・塩町弐町ニて会所壱ヶ所、問屋庄屋五人にて壱ヶ月之内半月は馬問屋相勤、半月は人足問屋相勤、別会所にて御継飛脚御用半月相勤申候、旅籠町・連尺町・田町・肴町右四町ニて会所壱ヶ所、庄屋問屋十一人ニて壱ヶ月之内半月馬問屋、半月人足問屋相勤申候、別会所ニて御継飛脚御用半月相勤申候」
であった(『浜松宿御役町由来記』)。ところが天明末年からは会所が伝馬町一か所となった(後述)。
【役人数】天保十四年(一八四三)の記録では馬継問屋場には、問屋二人・年寄兼帳付三人・人馬差四人があり、そして問屋一人、年寄一人ずつ隔日に詰め、人馬差は三人ずつ五日交替に勤め、ほかに町年寄十四人のうち、一人ずつ日割で問屋場に詰めて取締方をなし、大通行の際はみな出勤していた。
旅籠町勘左衛門は宿役人として文化二年(一八〇五)より問屋場に勤務し、人馬指半勤・人馬指本勤・書役勘定問屋場年寄・旅籠町年寄役を経て文政九年庄屋となっている。そして改めて「問屋場所持取締方大通行ニ而差支当座御勘定等も助遺候様」添問屋を命ぜられている(『旅籠町杉浦日記』)。
【問屋場の任務】問屋場は宿駅の中枢的機能である人馬継立の重要事務を実際に処理してゆく場所であり、中期では百人百疋の常備人馬があり、この宿立人馬のうち、五人五疋は定囲、二十五人・十五疋は臨時御用囲となっているから、実動人馬は七十人・八十疋という計算であるが、後述するように退転馬がなかなか多く、問屋場にある馬数は、それほど多くはなかったようである。人馬の勤め方については第三章第三節に述べた。
なお問屋場には諸印鑑・旧記・諸帳面が保管されていた(『旅籠町杉浦日記』)。
【町飛脚】また浜松には幕末にいたって町飛脚業者として伝馬町の林家があった。