増助郷

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 東海道筋のようにしばしば大通行がある場合には、従来の助郷村の人馬だけでは不足を告げるので、増助郷の村々が指定されるのが普通であった。『糀屋記録』(『浜松市史史料編一』)をみると京都御名代・日光御門主・堂上方・御三家・公家衆・大名衆などの場合であるという。
 浜松宿では天保七年(一八三六)に三十五か村が増助郷として指定されている。その総助郷高は二千石で、村々は天竜川中流域と浜名湖北三ケ日付近の二か所に集中し、もっとも遠い豊田郡青谷村は浜松宿から三五キロも離れた地点にあった(「有玉村高林家諸用記」『浜松市史史料編三』)。