延宝三年(一六七五)退転馬の吟味があったとき、浜松宿の伝馬は四十七疋、そのうち三十疋は荷付馬、十七疋は軽尻(からじり)馬であった。さらに延宝八年巡見役人に差し出した書付けによると、伝馬百五十疋のうち、有馬四十八疋、退転馬百七疋となっている。そして伝馬の不足した分は雇馬を以って、これを補ったのである。そのことはつぎに示す記録によって明らかである。
「一御伝馬退転仕り候ニ付、役人共三十人ツヽ両問屋に六十人之者共、其上庄屋共立会、日々各番ニ相勤申候、惣役人二百二十四人より日々代物取集め問屋に積み置き、村々ニて馬を雇い、不断往還御役相勤申候
一雇馬一疋之御役金 一ケ年四両ツヽ
一雇人足一人之御役金 一ケ年一両ツヽ」
万治二年(一六五九)の道中記によると「浜松舞坂のあいだ駄賃ことのほかやすし」とあり、浜松・舞坂間には駄賃かせぎの雇馬が多かったのである。