人馬持立金の下付

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 正徳三年(一七一三)の宿有馬は、三十四疋と一層減少している。そして享保九年(一七二四)でも有馬は三十四疋であった。そのようなわけで、その翌年人馬持立のため金五百両を下付され、伝馬百疋を三か年のうちに揃えるよう、もしこの三か年のあいだに参勤交替がない時節ならば、八十八疋でもよい、ということであったが、それでもなかなか容易なことではなかったようである。
 この場合、とくに注目すべき点は、従来の百五十五疋の数がまったく無視されて、東海道筋の宿駅一般の定馬百疋になっていることで、これから察しても、年々宿馬退転の傾向は如何ともしがたいほど、浜松宿は困窮していたのである。なお、浜松の百五十五疋は寛文十五年伝馬百疋となったとき、歩役方の五十五疋は宿の定め外として持立てることとなったためである。