中でも掛塚湊は天竜川の川口にあるので「深浅時ニ相替リ」好天にめぐまれ「風波穏成日和ならでは」難破の憂えがあった。このため取締問屋が出帆の順序をくじ引で定めるという不自由な点があったけれども、浜松宿にはもっとも近く重要な湊であった。
【廻送業】松島家の記録によると、元禄のころ、松嶋村(当市松島町)の五右衛門家は浜松から江戸へ廻船業を営み、元禄十六年(一七〇三)には前々から浜松藩主の年貢米・荷物(薪・炭・茶)の江戸輸送を請負ってきたと述べ、その運賃や積荷量を商人荷物と比較して、藩主宛に報告している。この時は掛塚湊を利用したらしい。その後宝暦十二年(一七六二)に五右衛門家は浜松藩主(井上氏)から年貢米の江戸廻送御用を命ぜられたので、新居・掛塚・福田の三湊からの運賃表を藩主宛に提出している(『松島家記録』)。