水野藩と掛塚湊

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 市野村では津出し米は一色(天竜川畔)から舟で掛塚湊まで運び、目減りは湊で補ったという(『市野村斎藤文書』)。天保六年(一八三五)浜松藩水野家は「お手船」四百五十石積一艘を掛塚湊に繋留していたが「屋敷ノ諸荷物」を輸送しようとし「御廻米並御用荷物」でないものの「番抜出帆」は困ると拒絶されている(三新町『鈴木文書』)。