天竜材の需要

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 近世初期において城下町の群生や参勤交替制が実施されたことによって宿場町の発達などという建築ブームの波にのって天竜材が全国的販路をもつようになった。【鹿島十分一番所】そこで元和三年(一六一七)には鹿島(天竜市)に、天竜川を流下する貨物に時価の十分の一を徴収する鹿島十分一番所が設けられた。中期の状況は上表のとおりで、このように多くの榑本が江戸・駿府を中心に袋井・気賀へと送られていた。その後元文年間には、江戸駿府はもちろんのこと、遠く東の方日光へ十万挺、西の方三河滝山廻り十一万千二百四十挺というように、掛塚湊から送木範囲もひろがっていた。
 しかし、この槫木も明和二年(一七六五)にいたり、船明(ふなぎら)・日明(ひやり)間の網留が廃止となり、それ以後は信州伊那地方からのバヲ狩りを廃めて、信州から直接筏を組んで船明の改所まで流下するようになった。このため榑木の山積もしなくてもよいようになり、ただ改所で印を捺し改めるだけとなった。
 とにかく近世の掛塚湊は米の津出し、榑木の積出湊として特色があり、これは明治時代までつづいたが、東海道線の開通によって中ノ町村に移りこの湊の機能は停止したのである。
 
年代 榑木数方面
享保6年10月短榑木6万6榑江戸
2.58挺袋井
12月短榑木4.54榑江戸・駿府
短槫木7.52榑船明止
長榑木286.91榑船明止
享保3年 20.挺江戸上野
.32挺気賀番所
享保10年2月10.挺江戸