しかし、この槫木も明和二年(一七六五)にいたり、船明(ふなぎら)・日明(ひやり)間の網留が廃止となり、それ以後は信州伊那地方からのバヲ狩りを廃めて、信州から直接筏を組んで船明の改所まで流下するようになった。このため榑木の山積もしなくてもよいようになり、ただ改所で印を捺し改めるだけとなった。
とにかく近世の掛塚湊は米の津出し、榑木の積出湊として特色があり、これは明治時代までつづいたが、東海道線の開通によって中ノ町村に移りこの湊の機能は停止したのである。
年代 | 榑木数 | 方面 | ||
享保6年 | 10月 | 短榑木 | 6万6榑 | 江戸 |
2.58挺 | 袋井 | |||
12月 | 短榑木 | 4.54榑 | 江戸・駿府 | |
短槫木 | 7.52榑 | 船明止 | ||
長榑木 | 286.91榑 | 船明止 | ||
享保3年 | 20.挺 | 江戸上野 | ||
.32挺 | 気賀番所 | |||
享保10年 | 2月 | 10.挺 | 江戸 |