海の難所遠州灘

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 遠州灘は志州鳥羽湊から豆州下田湊まで俗に海上七十五里、海の難所であった。
 【唐船難破】古くは天正二年(一五七四)のころ西嶋村(当市西島町)へ唐船(からふね)が漂着した。【唐人五官】このとき「連尺(当市連尺町)平兵衛所に落付申候唐人五官(ごかん)」は医の心得があり、市民に治療をほどこした、と伝えている。器用な男で、美しい唐糸を用いて花模様や紋章を刺繍して売りさばいたので、当時浜松の子女のあいだで「まわり(毬)持ったが白まわり、せめて五官の糸ほしや」という歌が流行した、という(『旅籠町平右衛門記録』)。元和二年(一六一六)群書治要刊行のときに不足の銅版活字を唐人五官に補鋳させた(辻善之助『日本仏教史』)というが、これは浜松にいた五官と同一人物であろうか。
 【遠州船鳥 島漂着】遠州船の難破した記録としては享保四年(一七一九)十一月、荒井湊(浜名郡新居町)の廻船筒山五兵衛船の船頭左平次ら十二名が鳥島に漂着し、絶海の孤島に前後二十年筆舌につくしがたい艱苦をなめて生き残った三人が帰郷したことが、漂流奇談としてよく知られている(「遠州船無人島物語」『日本庶民生活史料集成』五巻)。
 【紀州船漂着】他国の船もしばしば遠州灘海岸に漂着している。たとえば文化六年(一八〇九)四月、紀州海士郡大河浦孫左衛門船六百五十石が清水湊から帰航のさい小沢渡村(当市小沢渡町)海岸で浅瀬に乗り上げ、村民の救援を得て修理し出帆している(『渥美文書』)。【抜荷事件】このようなとき、しばしば起こったのは抜荷の問題である。【米津事件 松嶋海岸 和田湖岸】市内米津町安泉寺の地蔵尊は安永二年(一七七三)難破船から抜荷をしたがどで寃罪によって犠牲となった米津村民六名の菩提のため建立したものだと伝えているし(渥美実「米津地蔵について」『土のいろ』)、寛政十一年(一七九九)正月に紀州船が松嶋村海岸に漂着したさいには荷物を内分にて処理したという理由で庄屋・組頭・百姓代の三人は江戸へ送られ処分をうけ、嘉永七年(安政元年、一八五四)十一月には、「薩摩様」の積荷が「今切にて流れ」浜名湖畔の村櫛・和田・内山村海岸に漂着し、和田村民五名が無断で拾得したというので罪科をうけている(宮本七郎『堀江村松助年代宝蔵記』)。【篠原海岸】慶応三年(一八六七)十一月難破船から抜荷をしたという嫌疑をうけた篠原村(当市篠原町)民は中泉代官所に訴状を出し無実明白の裁断を得ている(篠原町『後藤文書』)。