つぎに町の長さを比較しよう。寛文期において東海道通町道子二百四十二間、裏(脇)町通道千八百六十三間で合計三千百五間であったのに宝暦九年には東海道通町道子四百二十一間、脇町通道子二百三十一間で合計二千六百五十二間となっている。両者の合計を比較すると四百五十三間と減っている。これは宿の中心となる東海道通町道がほとんど変化がないのに脇町通道の延長が減縮しているためである。これを町別でみると減少のいちじるしいのは早馬町・池町・平田町・本魚町・大工町・利町・紺屋町・猿屋町などのおもに宿の周辺部の町々である。これは寛文期において御役六町をはじめ東海道通町道がすでに固定化していたのに対し、脇町通道は町域に明確さを欠く点があったためであろうと考えられる。
浜松宿中心部要図 (浜松市菅原町 川島浦治氏蔵)
浜松宿略絵図(宝永時代)