町筋の屈曲

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 町筋は東海道では神明町の神明坂下と気賀へ通ずる紺屋町の紺屋坂下で大きく屈曲していた。これは城下の町筋の見とおしを防ぐためだという。なお、高町の坂は家康が浜松在城当時めでた桜があったというので、賀茂真渕が「あか駒を引馬の坂のもと桜もとの心をわすれでぞさく」(『賀茂翁家集』)と詠んだひくまの坂はこの坂だともいう。青山氏の高町の桜見物もこの桜であろう。