【秤】度量衡は、統一政治や庶民生活にとって重要な意味を持つものとして注目する必要があるが、文政六年(一八二三)に浜松宿新町の越川屋藤助は御触書に違反して秤を内密に改作したことを発見され、中泉代官所(秤役所)宛に詫び状を差し出している。
【質屋】庶民的な金融機関として質屋があったが、享保十三年(一七二八)の「浜松宿質屋仲間定」によると、当時二十一軒(成子坂町三、本魚町一、旅籠町一、伝馬町一、連尺町一、上新町一、利町一、田町七、板屋町二、紺屋町三)の質屋があり、質物の預かり一か年の期間は受け取った月から翌年その月限りとする、判形をとっておく、身分に不相応だと思われる質物は受け取らない、質札がなければ当人でも質物は渡さない、冬物は十月二十日、夏物は四月二十日で流質とすとか規定している。面白いのは、もし判形がない場合「下女やもめかゝあなとは請人計之判形ニ而質物預り不苦候事」と記していることである。
【鴨江観音】春夏秋冬、そのときどき楽しみもあった。【秋葉祭】享保年間の鴨江観音堂や普済寺の釈迦堂立替の地築には町々ではいろいろの趣向をこらして参加しているし、秋葉祭(当市三組町秋葉神社)は貞享二年(一六八五)の記録があり「此まつりは浜松町在々共ニおびたゞしく御座候、浜松町立始り而之まつりニ御座候」(「旅籠町平右衛門記録」『浜松市史史料編一』)とある。【大念仏】遠州大念仏も宿内で廃れるようになったのは「町方は余り混雑致し候ゆへ、自然と相止」(『糀屋記録』)むようになったのだという。【竜禅寺観音】文化十一年(一八一四)には竜禅寺観音堂の吊鐘ができてにぎわっている。
享保十四年五月大象が通過したときも賑わい、寛保四年(延亨元年、一七四四)正月に米津浜に大魚が二疋あがったが「人魚に違いなく」(「都田村年代手鑑」『浜松市史史料編二』)と評判であった。
【悪疫の流行】文化十一年疱瘡が流行し、塩町だけで子供が十六人かかり一人が死亡している。このような悲しみもあったわけである。
【行楽地 米津浜 三方原】なお、この時代に浜遊びといえば米津浜(よねづはま)、野遊びには三方原(みかたがはら)があった。米津浜には茶屋があり三方原の大菩薩付近からは松茸が採れた(「青山御領分絵図」)。また水野家では天保五年二月、三方原の和地山で鹿狩を行なっている(『有玉村高林家諸用記』)。
【舘山寺】舘山寺(かんざんじ)は『東海道名所図会』に「こゝは湖(浜名湖)の中へつとさし出でたる山崎にて、寺は山のなかばにあり、えもいへぬ松老いかゞまりて唐絵(からえ)見るやうなり」とあるように風景絶佳、月の名所であった。
文政六年浜松宿秤文書(浜松市三組町 内田六郎氏蔵)
享保十三年浜松宿質屋仲間定(浜松市鴨江 渥美静一氏蔵)