寛文期

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 しばしば随所に触れてきたことであるが、これをまとめてみよう。
 【元禄期】寛文年間(一六六一-一六七二)の浜松宿の戸数が千百十一軒であったが、それからほぼ三十年を経た元禄十六年(一七〇三)の調査によると、通筋町数十一町で家数六百四十六軒、このときの宿の総人口四千三百三十六人である。寛文期には新町から七軒町までの通筋の家数は五百四十五軒であったから、この四半世紀のあいだに約百軒増加したことになる。約二〇%の増加率である。またこの年、若年寄稲垣対馬守・道中奉行・勘定奉行・大目付の四人が揃って浜松宿へ泊ったとき、町奉行から書き出した報告によると、浜松の家数千三百八十六軒(そのうち役町は二百二十八軒)となっている。【宝永期】そして、これにつづく宝永期(一七〇四-一七一〇)には千四百九十五軒(そのうち役町は二百二十四軒)である。
 
(表)浜松宿家数の変遷
 寛文期元禄16年宝永期宝暦9年文化期天保14年
通筋町545646 823  
脇町566  875  
111113861495169817101622