【大工職】大工職 家康浜松在城の際、所々の陣場に、大工頭大工町伝右衛門の先祖源右衛門がお供をして用勤めをした。それ以来代々城の大工御用を勤めるようになり、細工役二百人扶持ということになっていた。
この大工職の由緒にはつぎのような記録がある。
「権現様浜松御在城之御時、所々御陣場は私先祖源右衛門御供仕御用奉相勤」その後も「御陣不残御供」をしたが「駿府の御城御天守御普請の節」お暇をいただき浜松へ帰り「其節浜松諸職人御褒美として国元居屋敷、一切の御役永く御免被為下、其後御米千石」を中泉御蔵米をもって頂戴したというのである。
【平田町桑原家 平田町】平田町の桑原彦右衛門家は、源右衛門と同族の家柄であるが、同家の『桑原家文書』によると、高力摂津守の代に後道へ別宅を持っていたが、太田備中守の代に平田町へ移った。はじめ平田町は人家がなかったが追々に家もできて八軒となったので八軒町ととなえたが承応元年(一六五三)に平田町と改名したという。天和二年の惣町町屋敷検地、元禄十二年の城下見分のさいの絵図、正徳五年の城下絵図作製、寛保元年の惣町屋敷検地にも御用を仰せつけられ、また浜松地方の各寺社の建築をした、と記している。
浜松宿諸職記録 部分(浜松市紺屋町 中山忠平氏蔵)