木挽職 木挽職もまた、大工職とともに協力して家康に従ってその職分を完うしたのである。すなわち、家康三河岡崎から浜松へ入国の節、木挽頭伝馬町今村才兵衛の先祖もお供をし、合戦のたびに掛川・高天神・横須賀等の陣場へ大工・木挽百人の仕手を連れて御用を勤めた。また五社大明神・諏訪大明神両社の造営にも力を尽くした。こういったことから浜松城付木挽となり地子諸役免となった。その木挽役勤方は、在方六か村にて百四十工の木挽を差し出し、町方にて二か所四十工の木挽を差し出し、水役の者は一人につき年々十工宛の奉公を勤めることとなった。このようなわけで、城付領分内へ他所の木挽は一切いれないのである。