檜物師 浜松の檜物師は家康在城のときから、公役を勤めてきたので、領内では他所から檜物屋細工を売ってはならないということになっていた。原料の檜木は、名古屋から仕入れ、三河の高足に送り、ここから陸運で浜松へ移入される。檜物師は細工類だけでなく、五月節供の胄類も造った。
宝暦年間の檜物師役は前表のとおりであったが、その後異動があり文化四年(一八〇七)の「檜物師御役勤之事」によると、檜物師頭屋敷 紺屋町一軒、檜物師役屋敷 紺屋町二軒・鍛冶町一軒の計四軒となっている。また文化十五年の「檜物師御役勤」に、檜物師頭 紺屋町一軒、素人本役 紺屋町三軒・連尺町二軒、水役 紺屋町一軒計七軒である。檜物師はこのように時代によってその役の人数も、居住地も変わるが檜物師頭は長右衛門と称し、代々紺屋町に住んでいたのである。