【鍛冶職】

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 鍛冶職 鍛冶職はその屋敷が、もと城内三の丸にあったが、のち鍛冶町に移転し、城中に対し、炭鉄入用の品を差し出し、細工物打立等をなした。寛永年中五社大明神造営に際しては、清水谷において金工鋳造方を命ぜられている。【金山権現】由緒によればもと城内に創立した金山権現(当市栄町金山神社)をこの地に遷座し、伊奈備前守より一反六畝十一歩の除地を付せられ、鍛冶頭鍛冶町村石九郎右衛門が神主として奉仕した。と伝えている。「権現公様浜松御在城之御時、当城御領分之儀は不及申、天竜川より西は今切まで鍛冶職鉄金物支配被為、仰付候事相勤来候」というようなことから、その後代々の城主の公務を勤めることとなったのだという。そしてその出役に対する作料としてつぎのとおり支給されている。「御役に罷出候節一日一人ニ付米一升五合宛御作料銀一匁四分宛頂戴仕候」この鍛冶職も領主から保護をうけ、他国の職人が浜松領内にはいることは禁じられていた。そのことは文政元年(一八一八)の禁令に「御他領鍛冶職之者、御領分御城付之内一切入レ不申候、無役ニ而鉄物紛敷職致者有之候得は、職儀を以差留申候」
 
 これらの職人頭は、いずれも正月には城内へ年頭に出るのが慣例となっていた。