魚と肴町

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 浜松城主は浜松の繁栄をはかるため商工業者に特権を与えて、これを優遇した。十職が職人に対する優遇であるならば、三品は商人に対する特権付与といえよう。ここに三品というのは魚・塩・糀を指す。つぎにこれら三品についてその由来・専売権、これにともなう紛争などについて述べることとする。
 【本魚町】魚 魚商は天正年間浜松城榎門付近に居住していたが、同十八年(一五九〇)堀尾帯刀が入城の際、この地区が家中屋敷となったために一旦本魚町に移転したが、ここは城に遠く不便であったので、慶長五年(一六〇〇)さらに肴町へ引越してきたことはすでに述べておいた(第三章第三節)。この魚商は家康のとき以来専売権を付与されたという。
 【肴町由緒】肴町魚商由緒については、延享四年(一七四七)肴町年寄庄屋から城中に対して提出した「御由緒書」から窺うことができる。これによると、
 
「遠江国浜松之城主永禄年中始之頃ハ飯尾豊前守様と奉申候所、其節ハ浜松町も家居不定、肴商人只今之本魚町ニ六人有之候、同九年(一五六六)権現様当御城江御入国被為遊、御肴御用も多相成御手支ニ付、本田(多)作左衛門様・天野三郎兵衛様・高力与左衛門様被遊御意候ハ、其方共六人ニて御用相達候得共、御肴御手支ニ付壱人ニて肴商人拾人宛相働き、大勢ニて御用相達候様ニ被仰付、所々ニ而肴商売仕候者呼集、都合五十七人ニ罷成候、其節肴町ヲ御取立屋敷地坪被下置、御年貢御免許被仰付候、難有奉存候、其砌ゟ肴商之儀西ハ舞坂、東ハ欠(掛)塚湊之内浜川浦々之魚鳥買取、干物魚等迄も肴町壱町限商売仕候様被仰付奉畏御請申上、為冥加始鰹献上仕度段御願申上候得者御聞届被為遊、壱ケ年壱度ツヽ年々始鰹献上仕来候、其後往還歩割を差加候様ニ被仰付、唯今ニ至而御伝馬役相勤申候、猶初鰹是迄年々献上仕来候、
右寛文八申年従御公儀諸国留売買之義御吟味御座候節、肴町右由緒之通御城主太田備中守様町奉行土肥与五右衛門殿へ書付差上申候所、江戸表江被差上候所、従権現様御時代被成下置候義ニ候得者、古来之通被仰付候、右ハ御尋ニ付由緒書奉差上申候」(「浜松宿古来書留」『浜松市史史料編二』)