このように、魚商ははじめ本魚町に六人あったところが、のちに五十七人と人数も増したので肴町に居屋敷を得て、地子免許の特権を与えられるとともに伝馬役も勤めることになり、そのとき西は舞坂から東は掛塚湊までの間の「浜川浦々の魚鳥買取り干物魚等」までの魚専売権を付与された、というのである。そして「浜松町中にて余町のもの共、魚類干物の魚商売為間敷」、魚商売は肴町に限られるとして、専売権の存在を主張してきたのであるが、これを冒す者があり紛争が起こっている。【隠売の紛争】寛文八年(一六六八)新町の徳兵衛という者が、その禁を冒して隠売をし、肴町庄屋宛に詫状を差し出したことがある。また元文二年(一七三七)から享和元年(一八〇一)にいたるあいだに、和地・笠井・向宿・天神町・植松・福嶋・永田の各村および浜松宿内の成子坂・板屋・下垂の各町でも同様な隠売をして紛争が起きている。このように隠売に対して厳重な戒めがなされているばかりでなく、物々父換も禁止されたのである。それは寛文六年山梨町の角兵衛・七太夫の両人が坪井村にて蓙売(ござうり)の際、漁師から請われるままに干鰺と交換し、これを馬付にして通行していたのが役人にみつかり、奉行所へ出頭を命ぜられ「此以後浜辺にて少々も魚替えものにも仕候ハゝ、何様之曲事にも可被仰付候、為後日、如件」と詫びをいれている。