また元文四年(一七三九)八月にも敷智郡馬郡村(当市馬郡町)百姓代藤兵衛外三人に対して塩町塩問屋源兵衛外二人から訴訟状がでている。すなわち、
「在々迄塩売場牓示相極有之、他所より無札塩売買停止にて、相手馬郡村も右牓示内に候処、古法を破り他国塩致売買間、御吟味奉願旨申上候」とあるように、馬郡村が牓示内にありながら、他国塩の売買を行なったことに対して吟味方へ訴え出たのである。これに対し相手の馬郡村は「当村浜方運上にて猟の魚塩に漬、国々へ積廻し致渡世来、塩多分に遣候得共、塩町より調候儀無之、他国塩自由に調来候、塩町之高値成塩調候ては渡世難成」と答え、塩町の塩は高値であるから、これを魚の塩漬用とすれば生活ができないようになるから、他国塩を自由に用いているのであるという。この申立てを吟味した評定所は、まず馬郡村が定められた牓示内であることを確認し、馬郡村に対しては今後牓示内で塩売買を行なわないように厳命し、塩町に対してはみだりに塩を高値で売ることはしないようにと約束させて、この紛争は落着したのである(舞阪町『江間文書』)。【三州塩】また享保十四年(一七二九)十一月にも気賀町(引佐郡細江町)衆が三州塩を売買したとして抗議している(『気賀河合文書』)。
正徳三年塩町塩出入文書(浜松市恒武町 田辺寛司氏蔵)