塩専売権の紛争

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 【隠売】しかし、この塩専売にも種々の紛争を生じている。古くは慶長八年(一六〇三)十二月、三州塩の気賀(細江町)に入るのを禁じ浜松塩の入荷を保護しているし(「中村文書」『静岡県史料』五)、享保三年(一七一八)五月には、塩町と敷智郡和田村(当市和田町)とのあいだに争論がおきている。このとき塩町は、古来から当町は宇布見・山崎・篠原三か村の塩を買い取って塩市をたて「天竜川・今切・気賀・井伊谷・二俣、山入海辺迄牓示相極り塩売来候、右之場へ他所より無札塩売候儀無之由申候」といい和田村が牓示内で塩を売ることは専売権をおかすものだと主張し、和田村は地頭方(榛原郡)に塩浜を所持し「山海共諸成敗可為如前々之旨有之、此由緒を以場所無構」行なってきたと称し、その結果和田村には確たる証拠がないのに塩町は「塩町之者所持之牓示古証文数通有之証拠分明」ということで勝訴となった。
 また元文四年(一七三九)八月にも敷智郡馬郡村(当市馬郡町)百姓代藤兵衛外三人に対して塩町塩問屋源兵衛外二人から訴訟状がでている。すなわち、
 
「在々迄塩売場牓示相極有之、他所より無札塩売買停止にて、相手馬郡村も右牓示内に候処、古法を破り他国塩致売買間、御吟味奉願旨申上候」とあるように、馬郡村が牓示内にありながら、他国塩の売買を行なったことに対して吟味方へ訴え出たのである。これに対し相手の馬郡村は「当村浜方運上にて猟の魚塩に漬、国々へ積廻し致渡世来、塩多分に遣候得共、塩町より調候儀無之、他国塩自由に調来候、塩町之高値成塩調候ては渡世難成」と答え、塩町の塩は高値であるから、これを魚の塩漬用とすれば生活ができないようになるから、他国塩を自由に用いているのであるという。この申立てを吟味した評定所は、まず馬郡村が定められた牓示内であることを確認し、馬郡村に対しては今後牓示内で塩売買を行なわないように厳命し、塩町に対してはみだりに塩を高値で売ることはしないようにと約束させて、この紛争は落着したのである(舞阪町『江間文書』)。【三州塩】また享保十四年(一七二九)十一月にも気賀町(引佐郡細江町)衆が三州塩を売買したとして抗議している(『気賀河合文書』)。

正徳三年塩町塩出入文書(浜松市恒武町 田辺寛司氏蔵)