もともと塩町は田地を持たず無地高四百二十石を結び、毎月塩市をたてることにより口銭をとり、年貢として上納し、伝馬役をも勤めてきた町であった(『江間文書』)。そこで塩町の塩問屋としては、なるべく安価に仕入れたいことから製塩業者との間に紛争を生ずることがあった。正徳三年(一七一三)の訴訟は塩問屋側が、古来塩一俵の正量は四斗入が規定であるのに、近来宇布見・山崎両村の塩俵の容量が減り三斗五升ぐらいしかないから、これを四斗入に直すか壱割以上の値引きをせよ、と主張したのに始まる。ところが製塩業者は、この浜松の塩相場の規準となる吉田(豊橋市)塩でも現在は三斗五升内外で相場をたてるのが慣習となっているから、不条理だと反論してゆずらない。その結果、道中奉行の裁決となって、浜松塩問屋は毎月一日・十一日・二十一日の三回吉田塩の相場通知をうけ、それにもとづいて塩相場をたてるということで解決した。ところが浜松側は、正徳五年吉田側に一俵五斗入を持ち出して拒絶されている。また享保十一年には宇布見・山崎両村とのあいだに、生産過剰となった塩の処理について紛争がおきている(「安寧寺関係資料」『雄踏町誌資料編三』)。
幕末も近くなると塩専売の特権もようやくその権威を失うようになってくる。たとえば、弘化年間(一八四四-一八四七)二俣村をはじめ付近の村々四十一か村が他国塩を購入したとして、浜松塩商人と紛争を起こし、江戸御奉行所へ訴訟をおこしている。このとき村々が申しあわせた「議定書」(弘化二年十一月)によると「浜松塩町塩牓示内之儀古来之定例茂無之儀ヲ塩町之もの共より彼是申紛シ牓示内と唱へ」高値の塩を売り「権威ヲ以勝手之取計無躰之儀」を申しかけるのは迷惑至極だと述べている。「権現様」の威光もようやく光を失いつつあったのである。
宇布見村山崎村塩浜図 青山御領分絵図 部分