【糀専売権の紛争】糀 糀は古くから竜禅寺村(当市龍禅寺町)において、糀屋十六人(時に十七人のこともある)として糀製造に従事し、十職と同じように家康から専売権を付与されていたという。その由緒は、安政六年(一八五九)糀屋十六人惣代から寺社奉行宛に差し出した文書によって、これを知ることができる。すなわち、
「寅吉奉申上候、私共農間麴商売之儀は、乍恐東照宮様浜松御在城被為候砌、麴御用相勤候ニ付、当村より往返一日路之在町において同商売一切不相成段御差留被下置、依之為冥加、寛永年中私共一同申合宗庵寺と申寺院建立仕、右寺中へ麴御堂補理、御尊牌奉安置、毎年四月十七日御霊祭無懈怠相勤、且浜松御城主御代々様初御入部之節は白味噌献上、孰も先規仕来相守、只今迄二百五十年余一同無難に永続罷在候」
とあるように、家康からの特権付与の冥加のため、宗庵寺に糀御堂を建立し、そこに尊牌を安置した。また歴代城中御台所糀御用の際はこれを上納し、往返一日以内の区域内においては他所の者が糀商売を行なうことは禁止されているとして専売権の確保を主張してきたのであるが、これにもやはり紛争が生じている。左はその一例である。
「其御村方糀商売之儀は重き御由緒を以て売場等之儀御定も有之候ニ付、猥に右場所へ立入候儀は不相成趣、当村役人へも先般御達有之其旨私共へも急度申付承知罷在候処、ふと心得違にて去る正月二十九日浜松御領分西ケ崎村へ糀商売に罷出候所御察当に預り、一言の申訳無御座候、依之今般肴町三九郎(立入人)殿を以て段々御詫申上候処、格別之御勘弁を以て内済に被成下、千万恭奉存候、然る上は向後心得違等不仕、其御村方売場之内へ決而立入申間敷候、為後証連印一札差上申候処、依而如件、
弘化二已二月 当国引佐郡金指村 詫人 利 吉
親類隣家惣代 利右衛門
竜禅寺村糀屋衆中
浜松肴町 立入人 三九郎」
このほかに、天保二年(一八三一)常光村、天保六年中野町村、嘉永四年(一八五一)篠原村・宇布見村・小松村・市野村、安政四年(一八五七)中瀬村、同六年尾野村・宮口村・白羽村・半田村・木船村・大久保村などとの紛争が起こっている。ことに安政六年の紛争の場合は糀屋十六人惣代と差添人としての庄屋とが江戸表にまで出訴におよび、文久三年(一八六三)までの四年間にわたる長期の訴訟となったのである。
三品の専売権紛争問題は、いわゆる御由緒だけで、船越村の船役権のように確実な証がなかったためにおきた係争といえよう。