三品の専売権については、今まで述べてきたとおりであるが、その専売権のおよぶ範囲は商業上の勢力権、すなわち浜松の商圏となる。
【肴の商圏】まず肴町の魚商については、延享四年(一七四七)同町年寄・庄屋から城中に対して提出した「御由緒書」に「肴商之儀西ハ舞坂、東ハ掛塚湊之内浜川浦々之魚専売仕、干物之魚迄も肴町壱町限商売仕候様被仰付」と仕入圏ははっきりしているが、販売権は明確に示していない。文久元年の魚商所蔵地図によると、当時の商圏は、西は舞坂浜松限り、東は掛塚湊天竜川堺、北は浜松領分村限りと定められ、特例として笠井市については「浜松領分之内笠井村之儀は市場の事故、月六斎之市日は東西より魚荷物持込、在所の商人取扱候儀は差構ひ不申候」とあり、また他領でとれた魚の販売については「牓示内にても、御他領之浜川にて漁候分、御領之者売買仕候義は差構ひ不申候」とあって、他領の商人が売買することも認められていたという。
【塩の商圏】つぎに塩町に限り塩専売権が認められており、その商圏は享保三年(一七一八)の評定所の裁定文書によって知ることができる。すなわち「古来宇布見・山崎・篠原三ケ村之塩買取、当所にて塩市立候付て、四百二十石の高詰、天竜川・今切・気賀・金指・井伊谷・二俣、山・入海辺迄牓示相極り塩売買来候、右之場へ他所より無札塩売候儀無之由申候」とあって塩の仕入圏も販売圏もはっきりしている。この塩の商圏も大体は魚の商圏と一致しているが、魚の方は他領でとれたものを、牓示内で売ってもよいのに反して、塩の場合は他領の塩の販売が禁止されている。したがって前に述べたように馬郡村との紛争では、馬郡村の者が規定の牓示内にありながら、塩町の専売権を冒して他国塩の売買を行なったことに端を発し、これも評定所の裁決で、塩町以外の者が牓示内で塩売買は行なわぬよう厳命を下している。
【糀の商圏】第三に糀については竜禅寺村の糀屋十六人衆が製造に従事し、その専売権も獲得しているが、販売圏は安政六年(一八五九)糀屋十六人惣代から寺社奉行宛に提出したつぎの文書によって、知ることができる。「当村より往返一日路之在町において同商売一切不相成段御差留被下置」とあって、往復一日以内の区域内において他所の者の糀商売を行なうことを禁止しているのであるが、これだけでは往復一日以内の区域を明示することはむずかしい。これもやはり糀屋惣代所蔵地図によって、その範囲が東は中野町・池田、西は舞坂・新居、南は米津・倉松・江ノ嶋、北は都田・気賀・宮口方面一帯であることがわかったのである。魚・塩の商圏に比べると、東は天竜川を越えて池田におよび、西は今切口を越えて新居にのび、東西ともに魚・塩の販売圈より拡がっているが、北方は気賀までで井伊谷・二俣へは達していないようで、前二者よりも縮小していたかのように思われる(渥美静一「続浜松城下町時代の民業」『土のいろ』復刊第二号)。